朝、ふわふわした布団の誘惑に打ち勝ってガバっと起きると何となく体調が落ち着いていないことに気付く。昨晩、夜更かしして宿題をやっていた間は何でもなかったし、別に全裸でガーガー寝ていたわけでもないので気のせいだろうと思いこむことにして学校へ行く準備に取りかかった。パンを2個頬ばって時計に目を向けると既に遅刻しないためのバス乗車に間に合わない時間であることを知る。やむを得ず、遅刻を覚悟して部屋に戻り椅子に座って次のバスまで時間経過を騙すことにした。

再び時計に目を向けてみれば、何と2本以上のバスを既に逃している時間帯となっているではないか。これ以上遅れては遅刻扱いになるため、椅子から立ち上がろうとしたが体は微動だにしてくれない。起床時の落ち着かなさを拡大解釈したかのような体調と化していることに漸く気づき、慌てて体温計を脇に挿してみる。……平熱だった。ただこの体の重さは尋常ではない。その時点でもう1限の講義の欠席を覚悟し、再び布団へと蜻蛉返りしたのであった。「まったくしょうがないわねえよりによって」と母親が呆れ顔で詰ってくるのが癪であったので、再びあのふわふわした布団の誘惑に身を埋めたのであった。


ガリガリガリガリ



                                 ドルルルルルルル


まるで敵襲のような轟音で睡眠は見事に妨げられてしまった。強盗にでも入られたのかと思いながらも、言うことを聞こうとしない体調ゆえにふわふわした布団にくるまって気付かないフリをする。そういえば、今日から何かやると誰かが言っていたような……。暫くその音に耳を傾けていると、母親が聞き覚えのない声を発する男性と何やら話し合っていることに気付いた。

そう、本日11月15日より凡そ一週間に亘り、10年以上過ごしてきた
我がマンション5階の一角(つまり我が家だ)で
いわゆる「リフォーム」が行われるのであった。

全ての部屋を行うのではなく、リビングルームとキッチンのみという話を以前から聞いていた。ガンガンガンガン。この部屋からリビングルームまではそこそこに離れているものの、よりによってこんなタイミングで…と、つい先ほどの母親の詰りと同じ文句を思い描いてしまった事に気付いて苦笑する。

そこでふと、予感を覚える。

もしかしてこの体調の悪さはこのリフォーム作業に起因しているのではないか……。そんな三流怖い話シリーズのような性質の悪い因縁をこじつけてしまう自分の情けなさから逃げるように、慌てて再び眠りに落ちた。




ドルルルルルルル。目覚めると既に正午を回っていた。明らかに体調は悪化の一途を辿っている。そう直感し、先ほどの体温計を再び脇の下に挿してみる。37.9℃。確定だった。本格的に風邪であることをしぶしぶと認め、今週のスケジュールを想起してみる。……のっぴきならない作業が幾つかあることに気付き、更に金曜はmixiの集まりに出席を表明していたことを思い出す。最悪の事態を想定し、ambient partyのキャンセルを表明しておき、とりあえず近所の病院へ向かうことにした。

ゆるゆると自転車を漕ぐうちに、何度か吐き気をおぼえる。折しも時間帯は近所の小学生達が学業から開放される時間であり、わらわらと小学生達が楽しげに家路についていた。病院まで半分ほどの道を進んできたタイミングであったか、フラついていた自転車が2年生くらいの女の子に接触したような気がした。「ぴにゃぁ!」という声が、小学二年生の女の子が自転車と接触した時に発するものであるなら恐らく接触したのだろう。振り返る余裕もなかったため、とりあえず接触はしていないということにして病院へと向かう。

と、そこで自分が携帯する財布にいかほどの金銭が納まっているのかと気になり、その場で確認してみる。何とか3桁といった具合であり、これでは診察後に病院から逃走するしかないため近所のコンビニエンスストアへと目的地を変更する。さっさとATMに向かい、震える手でキャッシュカードを挿入する。「アンショウバンゴウヲニュウリョクシテクダサイ」煩いな、おめぇ何度も使ってやってるんだからいい加減に暗証番号くらい覚えろよと腹が立ち、マナーのなっていないアーケードゲーマーの如くATMに蹴りをお見舞いする。体調不良ながらもそれなりの威力はあったようで、何やら警報音が鳴り響きだした。流石に厄介な事態だなと思い、ATMの中身をヌチュヌチュと揉みしだき、適当に4,000円くらいを引っ張り出してコンビニエンスストアを後にした。2千円札が混じっていなかったので今日はいい日なのだろうと思いながら。

このような紆余曲折を経て、漸く病院へと辿り着いた。待合室に入ってみると自分が新たにそこに混じったお陰で、待っている患者の平均年齢がほんの少しだけ下がったたようであった。カウンターに向かうと対応してくれたのは萌えない看護士さんであったので、仏頂面で「熱が」と一言だけ伝えた。看護士である彼女もどうやら患者である自分には萌えなかったようで、「これ、これ、これ」と矢継ぎ早に名前を書くように促してくる。さっさと仕事を終わらせようとする彼女の誠意に応えようと、こちらも流れるような筆致で書類の穴を埋めてゆく。「うん、待ってな」とだけ言い残し、彼女はカウンターの奥へと引っ込む。そう、真の接客業とはこうであるべきさと彼女の気の利いた対応に感心しながら、椅子に座って朦朧とする意識を伴いながら、読みかけであったISBN:4104580023。10頁以上読んだくらいでも一向に自分の名前が呼ばれる気配はない。うんざりしかけたころに、隣に座っていたご老人が「おい兄ちゃん、兄ちゃんは例の…アレか。秋葉原系ってやつか」と失礼なことを言ってきた。どうせ昨晩の下らない番組で得た付け焼き刃の知識を披瀝しようというあさましい欲動の現れだろうなと彼を精神分析しながら、「どうしてですか?」と素知らぬ振りをして聞き返してみる。

「だって兄ちゃんよぉ、ほら、そのカバンの中身よぉ」

カバンの中身? 今読んでいた舞城の本しか入れていなかったはずだが…と目を向けてみると、なんとそこにはとらのあなで今年の夏コミカタログを買った時に付録として持たされたPOP絵のロリィなイラストが施されたクリアケースが顔を覗かせているのであった。

そして世界が反転する。

先ほどまで自分を支配していた根拠のない自信が音を立てて崩れてゆく。色彩が反転し、清潔な純白を見せてくれていたはずの待合室の壁面は暗黒に塗りつぶされていた。途端に襲ってくる目眩、吐き気、節々の痛み。突然の精神転換に面食らったのとほぼ同時に先ほどの萌えない看護士が自分の名前を高らかに読み上げた。ふらつく足取りで診察室へと向かう。背中に老紳士の勝ち誇ったような哄笑を受けながら……。

診察室へ入ってみてもまだ何人たりとも不在であった。鬱々とした気持ちで待っていると隣の診察室から医師と老婆(おそらく患者であろう)の問診が聞こえてきた。脆弱な意識を何とか平静にしようと、気を紛らわす意味でその会話に耳を傾けてみる。要は老婆が昨晩、急に歩けなくなったのだという。脳に異常があるのではと懸念していたようだが、結論としては無理な運動がたたって疲労しただけという点に至ったようであった。「あたしゃぁお医者さんが嫌いでねぇ、バチが当たっちまったかねぇ」と呵々大笑する声に、ちょっとした安らぎを覚えた。名医ってのはこういうものなのだろうな…と。そして自分が遙か昔の小学生の時分に医者を志していたことを思い出してその夢を笑いながら家族に語ったリビングルームでの風景が頭をよぎりガリガリガリガリドルルルルルルルとそのリビングルームが蹂躙されてゆく様子が頭にダイレクトに伝わってきて「おえっぐるるっっぷ」と吐瀉物が胃から飛び出そうとしたのをすんでの所で飲み込むが一滴だけ胃液と思われる異臭を放つ体液が診察室の床に滴り落ちた。これは粗相をしてしまったと大いなる後悔に苛まれながら、その胃液は滴り落ちなかったことにしようと思って早く床を舐めて拭かないと! と思い立ったがその行為は明らかに正常ではないと気付くことができたのはきっと38℃に達しない自分の体温の-0.1℃のお陰だろう。履いているスリッパでゴシゴシとこすってみた。何とか見つからずに済みそうではあったがその場に漂う異臭を消すことまでは叶わなかった。

「ハァー」と盛大に溜め息を吐き、脂ぎってきた頭髪に嫌気がさしてぼわあっと少ない頭髪を掻き上げてみると真っ白な雲脂が辺り一面へと四散した。「雪月花だねぇ」と、隣で問診を終えた医師が笑いながら語りかけてきた。何が面白いのか、HARD HOUSEだろうがと意味の分からない憤りを覚えたため、問診は5秒で終わらせた。喉にくる風邪であろうという診断が下され、薬をもらうことになった。もう用はないと診察室を出ようとしたら「雪月花は片づけてくれないのかい?」と医師が嫌な笑みを浮かべながら問い詰めてきた。まあそんなもんだろうと覚悟はしていたので無視しようとすると「ゲロも片づけてくれない…と」とわざとらしく声に出しながらその所見をカルテに書き込んでいるようだった。全てが嫌になったので診察室のドアをガタン! と盛大に閉めた。看護士たちが「カカカッポン、カカカッポン」とコーラスしながら雪月花と吐瀉物を掃除しているようであった。

待合室に戻ると、自分が秋葉原系であることは待っている患者全員にとって周知事項となっているようであった。視線がそう物語っているのである。愚かな大衆どもにこの高貴な趣味は理解できまいと分かっていたので、「うへへへへへへ」と大声で笑ってその場を誤魔化した。

萌えない看護士から薬をもらい、用は全て済んだため家へと帰る。来た時から1時間は経過しているはずであったのに、まだ帰宅する小学生たちが絶えない。また接触してはいけないと細心の注意を払いながら自転車を漕いでいたが、体調がそれを許してはくれず5年生くらいの男女入り交じった仲良しグループに思い切り突っ込んでしまう。「ぷくるっく!」「ぴにゃあ!」「どるろっとっとって!」と黄色い声が脳を直撃したため流石に今回は本当にやってしまったと悟り。「ごめっ」と謝って逃げようとする。が、グループの一人であるメガネ少年が「見てみ、あれが秋葉原系若者の成れの果てってやつ」とこちらを指さしながら勝ち誇った口調で断定しやがる。「まじでぇー!」「あー昨日TVやってたよねー」「変なカッコの人に告白とかして超楽しかったー!」とゲラゲラ笑いが止まらない。ふざけんなよメガネお前どう見ても部屋にエロゲー隠していそうな生粋のガキヲタじゃねえか調子に乗るなよ、という意味合いで視線を彼に向ける。するとピシッ!という音と共に彼のメガネに一筋の罅が走った。そして何も言わず彼は親指を立ててウインクしたのだった。

「グッドラック」

分かっているじゃないかと最後は笑顔で彼らに別れを告げ、再び家へと急ぐ。今の出逢いはきっと自分にとってプラスになってくれる! という確信を胸に抱いてみると心なしか気持ちも体も軽くなり、自転車を漕ぐのも苦ではなくなっていた。なんだ、それならわざわざ病院に行く必要なんて無かったじゃないか、あはは、と笑いながら、一刻も早くマンションへと帰りたくなった。

駐輪場に自転車を止める。他の居住者連中が雑に駐めているため自分の自転車を駐めるスペースが無かったが、気分が良かったので整理整頓をする。綺麗に片づいたところで自分の自転車を空いたスペースに駐めた。背伸びをするとさっきまでのモヤモヤは「天高く馬肥ゆるAKIいいぃぃいぃぃぃいぃ〜♪」と鼻歌を歌いながら遙か上空へと飛び去ってくれたようだ。よし! と気分を新たにしたその時、駐輪場の真上、5階からガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルガリガリガリガリドルルルルルルルと響いてきたのでは「おぐぅごおえええええぇぇぇっ! げぉーーろろおぉっぷ、ぶっ、ぶっ! おげえぇぇぇぇ……っぺっ」と盛大に吐いてしまった。



リフォームの皮を被ったリドル/Riddleは、まだ始まったばかりなのだ。